顕本法華宗

経巻相承 直授法水

我等が慈父(釈尊)、双林最後の御遣言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云。「人に依らざれ」等とは、初依・二依・三依・第四依。普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用べからず。天台大師云く「修多羅(釈尊の説いた経典)と合う者は録してこれを用い、文なく義なきは信受すべからず」等云云。伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずることなかれ」等云云。(開目抄)


京都妙満寺を総本山とする日蓮系の宗派である。古くは日蓮宗(法華宗)妙満寺派、日什門流とも称す。開祖日什大正師は、日蓮聖人滅後三十三年、会津城主・葦名四郎盛宗の外孫として生まれ、十五で父母を失い、十九で比叡山(横川上智院慈遍僧正の門)に登り、名を玄妙と改める。三十八歳、天台宗の山門学頭・能化(教育・学問の長)として二十年間の職を継続す。五十八歳、故郷会津に帰り、羽黒山東光寺を管す。名声ならびに学徳を慕って全国より集まる学僧を指導すること約十年。ある日、弟子の預けていった日蓮聖人の「開目抄」ならびに「如説修行抄」を感得し、日什と自戒改宗す。改宗の噂あり、天台宗と東光寺の面目を保たんとする輩、日什を亡きものとせんとするが、幼き弟子(日妙)とともに夜陰にまぎれて会津を出ること、時に六十七歳。法華宗(日蓮宗)中山法華寺にて教学を講義するとともに、日蓮聖人の遺文を研究す。

しかしながら、時の日蓮門下各門流、自派こそ正統と感情的に争論し、宗祖の「立正安国」(釈尊の正しき教えに還り、国の安泰を護持せんとする)の本懐に遠く。日什上人、他門流に同心せず、仏祖釈迦牟尼仏の精神を受け継ぐは「経巻相承」にあり、宗祖日蓮聖人の御内証は「直授法水」なりと。意を決し「立正安国」実現のため、公家奏聞・武家諫暁を開始す。鎌倉を経て再び京都へ登り、足利幕府より洛中弘法の綸旨・二位僧都を賜い、六条坊門室町の小庵を妙満寺とし、関東との間を往還して布教に尽力す。社会は混乱し戦乱や天災の続く時代、庭中直訴を含み奏聞すること三度、諫暁すること数知れず。七十八歳会津に帰り、翌年入滅す。

近代の教傑本多日生上人、慶応三年姫路藩士国友堅次郎の二男として生まれ、菩提寺の本多日鏡の嗣子となる。哲学館(後の東洋大学)に学ぶ。宗門の積弊不振を概き、二十四歳教務部長となり教学布教に振るうも、宗門内の怨恨をかって、突如剥牒処分となる。正義貫徹のため、顕本法華宗義布教所を各地に開設し東奔西走す。各宗協会から師を宗門に復帰させよの声起こり、僧籍に復し妙満寺派綱要を編す。顕本法華宗と宗名を改す。仏教界の退廃と日蓮門下の分裂を憂い、各教団有志を募って統一団を結成。後、各界の名士からなる天晴会、その他講妙会、婦人のための地明会、労務者のための自慶会等を創す。日蓮聖人の唱える本仏・釈尊中心の仏教と、人生に勇気と慈悲を持って歩む信仰の感激を全国に展開し活躍す。明治から昭和期にわたる日蓮門下の偉大な存在である。昭和六年、六十五歳寂。

昭和十六年、統合日蓮宗設立。昭和二十二年、日什門流は、統合した日蓮宗内での改革継続を主張する派と宗風護持の為に再独立を主張する派と分裂。結果半数以上を現在の日蓮宗に残し、再独立した顕本法華宗もまた、その布教勢力を衰えさせてしまう結果となる。心の荒廃が諸問題を生み出し、良心の拠り所と自信を失いつつある社会、それにつけ入る似非宗教団体が氾濫している現代、この時こそ、僧俗を問わず、理想に向かって立ち上がらんとする人々の再結集の時である。平成十三年、日蓮聖人立教開宗750年前。

宮谷檀林

勝劣派の学問所。千葉県山武郡大網白里町宮谷の法流山本国寺に存した。本国寺は空海(七七四−八三五)が東国巡教のとき開創した真言宗阿蘭若興善寺と称していたが、文明三年(一四七一)五月、権大僧都日肝(本国寺開基)の教化により改宗し、塔頭一二坊を有する法華信仰の中心道場となった。一〇世仏眼日純(京都妙満寺三〇世、吉美妙立寺一〇世)は、元和八年(一六二二)五月閣老久世広宣の手によって徳川秀忠に謁し、本国寺に勝劣派の檀林を開くことを認可された。日純の後、自然日信、静明日柔(陣門流)、本通日遠、日盈(石門流)、養徳日乗、啓運日要、唯心日俊(陣門流)、精進日英らが歴住し、什門流の学徒のみならず、石門流、陣門流等、広く勝劣各派から学び来る者八○○を超え、幾多の明匠学徳を輩出した。歴住能化更代は二五〇世に及ぶ。なかで養徳日乗、啓運日要は学名が高い。日乗は儒者林羅山とも親交があり、台当両家の学匠として教界に盛徳があった。著述は一四種四三巻をかぞえる。宮谷檀林は大講堂を中心に東西南北に四谷を分ち、西谷には本堂、祖師堂、開山堂、大講堂、経蔵、宝蔵、鐘楼堂、書院、方丈、庫裡、名目講場、観部講場があり、東谷には文句講場、条箇講場、伴頭寮、南谷には玄義講場、北には学寮四〇余があった。明治に至り一時閉鎖したが、同二五年(一八九二)に宮谷大学林となり、同三三年七月に至るまで学徒が雲集し什門の学府として存在していた。(日蓮宗辞典)


総本山 妙満寺


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