無知なる者を騙す「創価学会入門」

「創価学会入門」(創価学会教学部編)を使って、創価学会が如何に無知なる者を騙しているか、そのレトリックを暴いていきましょう。

1 「真の仏教とは」というデタラメ

「仏教は、すべての人々が、より若々しく、みずみずしく、現代社会で価値創造していく源泉、すべての人の根本法」(p79)まずこれが惹き付けるための導入です。「このように釈尊の法華経は、仏教をすべての民衆の普遍的な生活法に据えた法理」(p80)と一応は肯定し、ですが釈尊の法華経においては、あくまでもまだ原理的な理論が述べられたにすぎません。」と否定し、あたかも『釈尊の法華経』以外の法華経があるかのように持っていきます。仏の教え・経典は、諭し悟らせるものです。法華経を読まない・読みとれない無知なる者に対し、創価学会の指導のような具体性が述べられていないから、不十分なものだと意識付けていきます。

「しょせん『釈尊の法華経』では、その仏界を顕現すべき実践法は、今なお一部の人々の範囲」(p81)「日常の生活と戦うすべての民衆が実践できるというような容易なものではない。」「つまり釈尊の仏法は、仏道を志した者が、世俗を離れ、種々の修行をしなければ、成仏できない宗教」(p82)創価学会は『釈尊の法華経』は、原理的な理論しか述べられていないと言いながら、今度はその具体的な実践法は、民衆のものではないと次から次ぎに翻弄していきます。法華経は大乗経典であり、即ち菩薩団(在家にある信仰者と僧侶)が中心になって、一切経における釈尊の教えの真髄を顕わし成立させたものです。したがって、難解な教理を得ようとする専門の僧侶のみならず、一切の人々が釈尊の弟子として如何なるかの自覚を持って、信仰を活かした生活をするかが大事となるものです。創価学会は、法華経に誤った認識を与え、それを『釈尊の法華経』とし意識づけるのです。

創価学会は、最初に「釈尊の法華経は、民衆の普遍的な生活法に据えた法理」と言っておきながら、最後には「『釈尊の仏法』は、民衆が成仏できない宗教」とすり替えます。これは、無知なる者に肯定できる常識的なことを先ず与え、知らないことを植え付け、これを繰り返すことによって洗脳するやり方です。

では、その手法を順々に見ていきましょう。まずは「天台大師は、いたずらに精神主義や形式主義の横行する仏教界を革新しよう立ち返り、仏教思想を再検討した稀代の英僧です。」「一念三千論を展開」「中国に横行していた南三北七という既成仏教界と徹底的に対決し、宗教革命を行いました。」(p82)と述べ肯定します。そして「だが天台大師の場合でも、その実践法はまことに観念的なものでした。」(p83)と今度は否定するのです。「(日蓮)大聖人は〜当時の日本の宗教界と徹底的に対決・まことに熾烈な宗教革命の実践」(p66)と宣いながら、「仏教界を革新・徹底的に対決し宗教革命」の天台大師の実践は、いつの間にか「まことに観念的」と切り捨てるのです。

彼等がここで「観念的」と話をすり替えるのに利用しているのは、天台大師の「止観」ですが、これを「法華経の法理(一念三千)を思い浮かべ、宇宙生命、仏の生命に合一しようとする実践」そしてこれを「日常の生活に余裕のない知識人でない限り、非常に困難な修行」(p83)と否定します。天台大師は、宇宙生命だとか、仏の生命に合一するなどとの仏教にあらざる事は言っていませんが、創価学会の主張もまた「人間が宇宙生命に合一、帰命したときに、初めて崩れざる絶対的幸福境涯に到達すること」(p93)であり、「その宇宙生命の根源を『妙法蓮華経』」とし、南無妙法蓮華経は「釈尊の仏法の域をはるかに超えて、その”宇宙即我”なる生命が、生命の実相」「だれにでも出来る簡明直截な実践法」(p84)とする観念的なものです。やや分かり難いですが、創価学会の教祖的指導者・池田大作氏は、天台大師の所説とは全く違うことであるのに天台大師の名を利用し、「南無妙法蓮華経」と宇宙生命と合一する(彼等はこれを成仏という)のが大仏法と宣っているのです。

彼等には哲学も何もあったものではありません。無知なる者を騙せれば良いのです。この”宇宙(凡)即我”の境地は、実は「釈尊は〜バラモン教との徹底対決」(p61)したところの、バラモン教の根本思想なのです。これは池田大作氏のいい加減な吹聴を、無理矢理に仏法とこじつけたものであります。そして「釈尊、天台大師の仏法がいわゆる貴族仏教」(p85)と無知なる者の嫌悪感を抱かせ、「釈尊や天台大師は、(末法の)そのような時代には、自らの仏法がまったく無力に等しくなると述べ」(p85)等と嘘八百を並べ立てるのです。このように創価学会の教義は、難しいのではなく無知なる者の頭を混乱させるだけさせて、結論的に「創価学会は正しい」と思わせる幼稚なトリックを使います。

次ぎに彼等は「宇宙生命の南無妙法蓮華経」は「釈尊が菩薩の道を行じ、成仏した本因、すなわち釈尊の仏法を成立せしめている根本の土台、根源の法」(p95)と言います。そして「成仏の本源の種子を明かした」(p96)のが日蓮聖人で「釈尊の仏法は、自ら修行した根本の因を明かさず」(p98)と、釈尊の仏法は衆生に役に立たずというデタラメな展開をします。日蓮聖人にとって釈尊は師であり、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。」「仏大慈悲を起こして妙法五字の袋の内に此の珠をつつみ、末代幼稚の頸に懸けさせたまふ」(観心本尊抄)と言われているのが本当です。即ち日蓮聖人にとっては「妙法蓮華経の五字」は「宇宙生命」などではなく、言うなれば「釈尊の魂」を顕わすものです。釈尊より譲り渡された妙法蓮華経の肝心「妙法蓮華の五字」を受持することを、「南無妙法蓮華経」の題目です。南無は、帰命するの意味です。

また「天台大師も、また日本の伝教大師も〜南無妙法蓮華経の題目を唱えた」(p98)と、南無妙法蓮華経を明かしたのは日蓮聖人だと言っておきながら、先師の例を引き合いに出して正当化し、「大聖人は、初めて自行化他の南無妙法蓮華経を唱え〜天台大師等が唱えた自行だけの題目とは違った」(p99)と言うわけです。日蓮聖人は、天台大師や伝教大師の書物より学んでいるのですが、無知なる者には歴史の順序も何もデタラメで良いというのでしょう。確かに南無妙法蓮華経を人々に広めることをしたのは日蓮聖人なのですが、「明かした」のと「広めた」のを、いつの間にかすり替えているのです。

少しばかり補足しますが、「止観」というのは、天台大師が法華経に基づいて「菩薩の自覚」を得るために打ち立てた行法でもあります。日蓮聖人が重きに置く「菩薩の自覚」を得る行法とは違いますが、行法の違いは、あくまで行法の違いであって仏法の違いではありません。仏法とは仏陀である釈尊が説いたところの真理・哲学であって、それを悟り自らに体現していくことであり、釈迦の仏法、天台の仏法、日蓮の仏法などとの差別があるものではありません。

創価学会は、会社の社長に成功の方法を聞きながら、その成功の秘訣は実は俺が発見したんだ、だから部下である俺が会社の皆のためになるので、社長はお払い箱だと言うようなものです。こういう思想を植え込まれた人達が、社会の中でうまくいくわけがありません。こう言う思想を植え込む創価学会のやっていることは、彼等の言う宗教革命などではなく、実はテロリズムと同じなのです。創価学会は、ガラクタを詰め込め「すごい、すばらしい」などと自画自賛させては、信者を支離滅裂な頭にさせて邪魔な相手を批判させるのが、その教義の目的です。

次ぎには、池田大作氏の作り事である「宇宙生命」のために、日蓮聖人の教えを騙っての歪曲です。「大聖人の南無妙法蓮華経は、あくまでも三大秘法の南無妙法蓮華経、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇」(p100)と述べます。まあ、ここまではよいでしょう。続けて「この本門は、法華経の迹門、本門という場合の本門ではなく」とデタラメを言いだしたかと思うと、「釈尊の仏法では説き明かしていない独自の法門」の意味だと言います。三大秘法については後ほど詳しく述べますが、これは法華経本門・釈尊の久遠実成を顕わした寿量品の法門に入るためのものです。即ち、永遠なる本仏釈尊の仏法に自らを包摂させるものです。しかし、あろうことに創価学会は、全民衆の帰依する対境として図顕された曼陀羅本尊自体を「本門の本尊」(p103)だと教え、「宇宙生命の当体である南無妙法蓮華経に帰命する」(p104)のだと言うのです。よくぞここまで、仏教を低俗にし、日蓮聖人の思想を辱めることをしてくれます。仏教は哲学的に難解なことを、一般の方にも受け入れて信じて貰うために易しく説くことはしますが、創価学会のように低俗なものにして大衆向きだから、こっちが正しい仏教だというのは、あまりにも無知なる者を馬鹿にしたものでありましょう。

次々に可笑しなものが出てきます。この図顕された曼陀羅本尊を「厳然と実在する仏界という宇宙大の生命を涌現させるべき対境」「大御本尊は、まさに宇宙生命の根源そのものを顕在化」(p105)と言い、「厳然と存在する生命の法理を、すべての民衆に恩恵を与える当体」(p106)と述べています。創価学会は、無知なる者は「仏界」と「宇宙生命」等これらの「すり替え」に気づくこともなく、これを鵜呑みにするものであることを利用しています。これはカルト宗教の典型で、頻繁に「すり替え」「置き換え」をしても仏教に無知なる者には信心を強要すれば、矛盾を唱えないと考えているからです。こうして彼等に「俺達は宇宙生命だ」などと、意味もなく慢心を起こさせるか、訳もなく頭を混乱させて「俺達はすごい哲学だ」などと驕らせるのです。

「仏界」とは、我たちの精神に具足する「仏の境界」即ち精神です。我たち凡夫の精神は、これを表象として現すとするならば、その他に大きく分類して餓鬼・畜生・地獄、天・人・阿修羅などを具足しているわけです。そのどれが、中心となって他の精神を包摂するかによって、その人の人格なり人生に影響を与えます。餓鬼・畜生・地獄に表象される精神によるならば、その人の人生は餓鬼・畜生・地獄のようなものになるのです。仏界を顕わにして、仏界を中心として、仏界に他の精神を包摂させることによって、私たちの精神は融和統一されていきます。仏界とは、即ち仏の智慧と慈悲に満ちた境界であり、宇宙生命の根源などと言う”けったい”なものに、すり替えるようなものではありません。勿論、日蓮聖人の曼陀羅本尊も仏界を表象として顕わしたものでありますが、宇宙生命の根源を顕わしたものではありません。

「仏界」を「宇宙生命」にすり替えた創価学会は、仏界を説明するときに次のように言っています。面白いことに「その真実の姿は、簡単には述べることのできないものです。」(p180)とまず誤魔化しておきながら、「仏の十号」を揚げてその一分を述べるならばと言っているのです。「仏の十号」とは、釈迦牟尼仏を帰依の対象として、その仏の人格としての徳を称えた「称号」です。余程にうすらぼけた頭にされなければ、これを「宇宙の生命」「生命の力」などと鵜呑みされるものではありません。創価学会は、人々の仏教に無知なることを利用して「仏界を顕わすこと」を「宇宙大の生命を涌現させること」と何の脈略もなくすり替え、そして「宇宙のリズムと合致した生命活動になる」などとの迷信を平然と言ってのけます。そして「もはや一般に喧伝されているような神秘的なものではなく」等と言い、おまけに何等の根拠もなく「科学的な眼からみても何の矛盾もなく」(p108)などと自画自賛し、何の論拠もなく創価学会は科学的だと思わせるのです。

創価学会の教学部などというのは実はもっともらしい名前だけで、池田大作氏のデタラメな考えを信者に素晴らしいと思わせ、正統な教義を罵倒するだけの存在ですから、論理もへったくれもありません。仏教に無知なる信者の迷昧なる頭を混乱させ、そして信者に結論だけは「同じ南無妙法蓮華と唱える日蓮宗各派は〜、大聖人の仏法を釈尊の仏法と同次元におき、生き生きとした仏教の精神を喪失しているのです。」(p108)と植え付けるのです。釈尊の直弟子であることを自覚され、釈尊の説かれた仏法の真髄を護らんとした日蓮聖人を創価学会は悪しき敬い、「日蓮の仏法に比べたら釈尊のものは低次元だ」などと、全くの支離滅裂なことを洗脳していきます。

そのデタラメぶりは留まるところを知りません。仏界(仏の教導する世界)を顕わす曼陀羅本尊を「宇宙生命」とすり替え、今度は「日蓮大聖人の生命それ自体」(p109)と言い出します。日蓮聖人の生命を「宇宙生命の根源」「本仏」にして「大宗教」などと馬鹿なことを言います。自らの教義の低劣さを露見した上に、釈迦牟尼仏を教祖とする仏法を揚げて「宗教の教義の低さを隠蔽しようとするためにとられたもの」などと批判するのですから、これはもはや仏教なんぞと言う代物でも、まともな宗教でもありません。こんな仏教を騙る似非宗教が自らを「最高峰にそびえる仏法」と褒めそやし、「正しい仏法が社会、文化の指導理念として、その根底をなすこと」とし、政治・経済・教育・文化に入り込み、「宗教革命を根底として一切の文化革命の進行」(p113)という名の組織拡大を、700万以上の信者の数と信者から集めた金にものを言わせて行うのです。

また、日蓮正宗の信徒団体として、その偏狭な教義を利用して強大な組織となった創価学会は、遂には日蓮正宗をその傘下に収め、法主の上に立つ権力を完全に掌握しようとしました。散々に甘い汁を吸わされた日蓮正宗も遂には創価学会を破門するのですが、破門された創価学会は、今度は自分たちが日蓮正宗の継承者であると、日蓮正宗を日顕宗と呼び、仏敵であると信者に大号令をかけています。「近年の極悪法主・日顕ならびに日顕宗の出現で、遊蕩僧侶の悪事の実態が次々と明らかにされ、また日蓮正宗・宗門の歴史も他の日蓮宗と変わらないほどの大謗法にまみれていた」と述べた上、「ともかく、創価学会だけが〜全人類の平和と幸福実現のための活動を世界を舞台にして進めているのです。」(p115)と、何が「ともかく」なのか、何が「平和と幸福」なのか、さっぱり分からずに自賛毀他の有り様です。日蓮聖人の幕府への諌暁とは、「信仰の誤りを正して釈尊の教えに還るべし」と諫める意見具申でありましたが、釈尊の教えには縁はない等と教える創価学会が、この日蓮聖人の諌暁を揚げて「日蓮聖人は権力との対決も辞さなかったのです。」(p116)と、政府などの如何なる権力に対しても、創価学会を邪魔するものと戦うことが正義であると洗脳していきます。有識者の皆さんなら解るように、これは理想社会の実現を掲げるテロリズムなどが革命思想に傾倒させる手法と同じです。


2 「生命の法理」というデタラメ 

「生命とはいったい何なのでしょうか」(p122)ではじまり、唯物論と生気論をのべています。唯物論を批判し、生気論は「生命を支配する超自然の法則」と述べ、それを「神がそれであるという思想」(p127)とし、「自然科学と矛盾する神の問題をもってくるのはナンセンス」「生命の外から、作者が手を伸ばして生命の創造を行った証拠は何一つない。」と批判します。ここで、哲学に無知なる者には生気論に「すり替え」が行われています。自ら生気論を「法則」と言いながら、無知なる者に、それは「創造神」として「生命の外にある」と批判しているのです。

皆さんここで良く思い出して下さい。創価学会は「宇宙生命=南無妙法蓮華経=日蓮大聖人」に帰命して、宇宙のリズムと合致するのだと述べていたのですね。これは宇宙神に帰命し、宇宙神と一体になるということですね。それにも係わらず「仏法ではそれを生命の中に求めるのです。」(p128)と続け、それは神とか魂とかと同じものではない「生命の根元的な原理」「妙法」と言い、「法でなければムードであり、観念であり、空想である」(p129)と言うのです。理解できましたでしょうか。理解できなくて結構なのです。理解できないのは、デタラメだからです。無知なる者を混乱させて「すごい、すばらしい」と自賛毀他させるのが、創価学会の目的だからです。

さて次ぎに、創価学会は唯心論と唯物論の批判を始めます。唯心論とは、簡単に述べるならば世界は精神的な本源から成立するとする学説です。そして唯物論は、人間の意識の外に事物が存在し、世界は物質的が第一次的で、精神・意識は第二次的なものとする学説です。しかしながら創価学会は、まず唯心論を「心や理性や肉体と区別された存在であるだけではなく独立している。いいかえれば肉体なしに存在し、活動できるというのです。」(p132)と、まるで低俗な霊魂の話をしているかのように思わせ、「肉体なしにもちうることをどうして説明するのでしょうか。」と批判します。そして次ぎに唯物論を、「物質から精神が生じたというのは発生の順序を述べたものであって、生命自体の把握ではありません。」(p133)と批判します。

頭の回転の速い方は気付かれたと思いますが、創価学会の唯心論への批判と、唯物論への批判を合わせるならば「肉体があり、同時に精神があるのが生命だ。」と小学生でも納得することを述べているに過ぎません。これを「色心不二の仏法」(p134)と宣い、「従来の生命観に誤謬があった。」と言うのですから、彼等の大哲学は笑えます。フンフンと分かったような気分にさせておいて、今度は「色法と心法は不二の実在であり、その不二の実相を南無妙法蓮華経と名づけ」(p135)と、無知なる者には理解できない言葉で煙に巻き、「それが生命の根源なのです。」と、何の生命観に関する説明もせずに結論付けるのです。先には、生命の根源とは、南無妙法蓮華経という宇宙生命で、日蓮大聖人の生命の根源でありと言っていたのです。彼等の言う「南無妙法蓮華経という宇宙生命」について何も述べず、小学生並のことを言って「この色心不二の生命論こそ、従来の思潮を止揚したもの」「現代の対立する社会を変革し、調和の世界を築くことができる」と大風呂敷を広げるのですから、相手の無知なることを良いことに、随分と真面目な信仰を求める人間を馬鹿にしたものと言えるでしょう。

次ぎに「創価学会入門」は、依正不二についても述べています。正報とは、過去の業の報いによって得た心身、依報とは過去の業によって得た環境を指しますが、常識的な仏教では、この心身と心身の居住する環境世界は一体だと説いています。創価学会の批判している唯物論・唯心(観念)論は、物質的なものが先か精神的なものが先であるか、主体はどちらであるかを問題にしている哲学ですが、彼等はこれを主体と環境(客体)を切り離した理論とデタラメを言い、「渾然一体となった壮大な大宇宙のリズム」であり、これを「依正不二の法門」(p138)等と突拍子もないことを言うのです。何が「壮大な大宇宙のリズム」なのでしょうか。唯物論も唯心論も、主体と客体の関係を述べているものであり、主体なくして客体ないのは当たり前のことです。当たり前のことを「壮大な大宇宙のリズム」とデタラメを言い、「依正不二の法門」などと妄語しているのです。

依正不二なれば、過去の行為の結果による心で見る世界は、その行為の報いである世界を見るのであり、過去の行為の結果によって住む世界を見るならば、その心が如何なる行為の結果にあるのかを知ることが出来ます。即ち依正である心身と依報である世界は異ならずということです。勿論、釈迦如来の教えに安住していない場合は、その心は一瞬にして過去の邪な行為によるものに変わりますから、瞬時にして自らが見る世界も変わってしまいます。この心身と世界を創価学会は、「妙法という渾然一体の生命の上に二つの現れ方をしている」(p139)と、つまり妙法蓮華経という宇宙生命の現れだとおかしな事を言います。宇宙生命の現れならば、仏教が説く本当の「依正不二」すなわち「因果応報」は無益になります。そして「生物の誕生以前、すでに生命の方向と環境への方向が秘められていた」(p139)と「神のみぞ知る」ようなこと言うのですから、人が如何なる心で、如何なる生き方をしようと、自らを取り巻く環境・世界は変わらないと言っていることになります。

これでは宗教として甚だまずいので、創価学会は、依報不二なれど「実践面において正報こそが中心」と言い出し、「強き主体の確立、すなわち人間革命が偉大なる力をもつ」(p141)と論理破錠のまま、実在なる宇宙生命と一体となって「強き主体となって、自在に振る舞っていくことができるのです。」(p142)と宣い出します。これは結局、「人間革命」とは、即ち「宇宙生命」という宇宙神になったつもりで、神の如くに強き主体となって自在に振る舞えと言っているのであって、釈迦如来ならびに日蓮聖人の教えとは途轍もなく懸け離れた新興宗教であることを顕著に物語っています。

それでは創価学会の「宇宙そのものが生命」(p146)を追ってみましょう。「この冥伏する(内在する)生命の根源は、神とか超自然とかいったものなのでしょうか。これも大きな誤りです。」「宇宙が即生命であるというのは、その現象の根底にある原理においていったものです。」と述べています。哲学では、この宇宙の原理を「神」と証明する説もありますが、これはひとまず置いておきます。仏教と対峙したバラモン教では、宇宙の究極的原理をブラフマン(梵)と言います。そしてこのバラモン教の根本思想は「梵我一如」と言われ、宇宙の根本原理ブラフマンと個人存在の本体アートマンと同一であることを悟り、解脱するという思想です。創価学会は「人間生命と宇宙生命が即一の境地冥合するのだ」と言っていました。すると彼等は、バラモン教を以てして仏教を騙り、仏教を排斥していることとなります。

そして今度は、進化の「自然淘汰説」を否定し、「その形態をとりうる力、発動性、自立性をもっていなければ、そのような変化はありません。」(p148)と述べます。これは前に創価学会が否定した生気論です。宇宙全体に目的論的な原理を想定し、これを人格と見るならば「宇宙神」であります。この否定した生気論を使って、「大宇宙それ自体が一個の巨大な生命の世界であり、生命の方向をもっている。」(p152)と述べるのですから、無知なる読者の混乱は留まるところを知りません。私たちの存在するこの宇宙(世界)は、物質的世界、精神的な世界によって成り立っています。物質的世界も、精神的世界も、互いに依拠し、そしてある法則によって、統一調和されていることは仏教では論を待ちません。その法を悟って、我等衆生の人生に社会に教えを説かれたのが釈尊であります。然るに、釈尊を蔑ろにして、バラモンの宇宙根源を拝借して「宇宙生命」と宣い、「この考えは画期的なもの」「一切の生命論の基盤」と述べたかと思うと、「自然科学をリードするこの仏法の生命観が、日蓮大聖人によって明らかに説かれていたとは、実に驚くべきことである」「これらの原理を現代科学は確実に跡付けている」「仏法は計り知れないスケールをもった大生命論」(p153)等と、デタラメのことを言って頭をさっぱり解らない状態にさせておいて、お得意の「自画自賛」だけを頭に残させるのです。

これまでの創価学会の言っていることを少し整理しましょう。創価学会は「南無妙法蓮華経は宇宙生命である」と言い、「原理であり、神とか魂ではない」と言って生気論を否定しながら、生気論である「能動性、発動性、自律性がある」と言い、神とか魂ではないと言いながら、「日蓮大聖人の生命それ自体」と言い、デタラメにデタラメを繋いで、遂には宇宙生命=南無妙法蓮華経=日蓮大聖人、即ち日蓮聖人を宇宙神にして、仏教を騙るが故に日蓮聖人こそが本仏と置き換えているわけです。この間に、うだうだと最もらしく述べられた屁理屈は、すべて読む者の頭をボヤンとさせるために挿入されたレトリックです。無知なる者の頭に残されたのは、とにかく創価学会の仏法は「すごい、すばらしい」という言葉だけなのです。

さて、創価学会は釈尊や天台大師の仏法は無力だといいながら、今度は天台大師の「三諦円融」論を引き出し、恰も自分たちが主張しているかのように「仏法では、さらにこの三諦によって明確にされた生命を掘り下げ、永遠の実在を論じ、生命の実相を究明して、個人の絶対の幸福と、社会の繁栄の方途を説き示しているのです。」と笑わせてくれます。盗人猛々しいとは、当にこう言うことを言うのでしょう。そして何の論理も前触れもなく、「幸福論のうえから仏という最高の幸福境界の生命」と幸福になることを唱い、創価学会の説くように宇宙生命と合一すれば「仏の振るまいとなり」「仏智が涌現し」「悠々たる人生行路を歩むことになる。」とのデタラメな迷信を繰り返し植え込み、「ありにままの人間性でありながら最高の自己の確立」「人間としての偉大な価値の創造していく」(p162)と言うのです。仏教の基本である、正しき見解を持ち、正しき信念を保ち、正しき精進を行って、その果報を得る、人格の完成に向かうという道理を蔑ろにし、無知なる社会的に弱者である者に、自分たちは創価学会の正しい仏法をしているとの選民意識を持たせ、そのままの人間性で人間としての偉大な価値を創造しているのだと錯誤させ、煽てて利用しているのであります。

まとめに入りたくとも入れない程、デタラメなのが創価学会の教義です。「人間が宇宙生命に合一するのだ」と言い、「生命の主体である実在とは宇宙そのものだ」と言い、「それは南無妙法蓮華経という法理」だと言います。しかしながら、姑息にも法理そのものは如何なるかをけっして明かすことはしません。これは仏教の法身論を一部拝借した池田大作氏の低俗的な「宇宙生命論」と言われるものです。そして今度は「生命そのものの実在を一念という」(p173)と言い出したかと思うと、地獄界から仏界までの心の境界を述べて、人間の究極をあらわしたのが仏界だと言い、「生命の奥底の仏界が全衆生にあることが、偉大な哲理であり法理」(p181)だと言います。創価学会は、この仏界という境界を完全なる人格の本仏釈尊の成就した一念と見ず、凡夫の心にある、凡夫の一念と見なすのですが、これは誤れる「己心本仏論」と言うものです。そして、生命の尊厳がどうのこうのと宣い、徳も何も積むことのない凡夫こそが本仏だという馬鹿げた「凡夫本仏論」掲げ、今では人間尊重の宗などと宣伝までしています。

また、仏界の顕現は「学問や修業によって得られる生命ではなく、結論からいえば、日蓮大聖人の仏法を信じ修行して初めて得られるもの」(p182)と、仏教の一切の行学を否定し、論理もへったくれもなく勝手な結論だけを述べますが、彼等の言う日蓮大聖人の仏法とは、本仏釈尊の説かれた仏教の真髄ではなく、前述された如く、宇宙生命の日蓮大聖人が説いた、宇宙生命の根源は南無妙法蓮華経という法理であるというものです。これは日蓮正宗の異質な教義「日蓮本仏論」を踏襲し利用した低俗なデタラメであります。そして法華経を信じることと言うのは、「法華経を信じることではなく、日蓮大聖人の仏法の究極である御本尊(曼陀羅本尊、しかも創価学会のに限る)を信じることである」(p183)と滅茶苦茶なすり替えをし、幸福と罰を飴と鞭のように使い庶物崇拝をさせるのです。これではまるで、インチキ宗教の置物と同じであります。

釈尊の説かれた法華経を信じることを否定され、日蓮大聖人の御本尊を信じると言っても、御本尊の何を信じるかを知ることのない創価学会の信者達は、ただ闇雲に曼陀羅本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えて幸福になり、不幸を除こうとするのですから、信仰の拠り所が不安となり、そして結局創価学会の言ってることを兎に角信じる、創価学会の教祖的指導者を絶対的に信じるように仕向けられるのです。そして組織拡大のための創価学会への入信勧誘や公明党の選挙運動が、平和のためであると信じさせられ忙しく駆り立てられるのです。これが似非宗教・カルト宗教の手法であり実態であります。

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