shamonの助言集
(れんげさんが某仏教掲示板での助言を抜粋・整理して下さっていたものです。)


筋肉の超回復力を御存知ですか? 筋肉の繊維は、負荷をかけることによって切れ、そしてさらに太くなって回復します。ただし、負荷をかけた後は回復するための時間も与えることが大事で、これを繰り返すことによって、強靭なものとすることができます。
自分の持っている許容量以上(と言っても自分で思い込んでいるものですが)のことをすれば、神経を磨り減らすことは当たり前のことです。私なども、限界になって壊れるときがよくあります(笑)。しかしながら、すこし休んで回復した後には、今度はさらに許容量が高くなっているものですよ。これは人と競っているのではなく、自分自身を高めるためのことなんです。今の世の中に限らず、どこへ行っても生を受けたものは臨まなければならないことです。
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自分も同じように苦しみ、その苦しみを知っているからこそ相手の気持ちを良く理解し、アドバイスできるのですね。それは仏教の菩薩の道でもあります。
また、人にアドバイスするように努めることは、同じ事に苦しむ自らにアドバイスしていることにもなります。他の人の助けになっているようで、実は自分のためになっているのですね。
「情けは人のためならず」お釈迦様は、実に良き配慮をされているということです。ただし、自分よがりな考えでアドバイスしたのでは、人のためにも自分のためにも悪影響ですね。
人のためにも、自分のためにも正しくアドバイスするためには、人格の完成者であるお釈迦様の教えを知る、お釈迦様の声なき声を聞こうとすることが大事でありましょう。
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「お釈迦様の導き」は、それを信じる人の世界には誰にでもあります。その世界は、その世界を感得している人、それを信じる人々に共有する世界ですから、貴方が釈尊の教えに信心を以て生活しているならば、お釈迦様の心は他の人の心にも通じていきます。お釈迦様の導きを活かしていくことによって、一切の世間から貴方自身が守られていくことになるのですね。信心に疑いを以て臨んでいる場合には、なかなか自分を取り巻く環境というものは変わってきません。
精神的なダメ−ジを受けると体調も優れなくなり、体調が優れないと精神的なダメ−ジを受け易くなります。執着しない、逃げ出さない、クヨクヨしないためには、お釈迦様にすがるだけではなく、お釈迦様が説かれた執着しない、逃げ出さない、クヨクヨしない方法を学んで実践していくことが大事となります

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自分は完璧主義なのではないかと思う人は、大抵が自己完結型です。物事が上手く動かないときに自分の能力を疑い自分を責めます。自分の悪いところを抑え込もうとして、どんどんと自分を見失ってしまうのですね。すると、自分を取り巻く環境との接点が無くなりますから、殻に閉じこもる状態となります。自分を活かし、自分の能力を社会に還元できなくなるから、ストレスに押し潰されそうになります。
自分を取り巻く物事が上手く働くようにするためには、自分の内面的なものへ向かっては駄目です。常に外に働きかけねばなりません。ただし、自分を中心に見て、世間に働きかけるのではありませんよ。自分を除く世間なり、会社組織なりの進むべき理想の方向を見極めて、その中に今の自分に相応しい駆動となる歯車や潤滑油のポジションをキ−プすることです。自分と自分を取り囲む環境が、一体となって動いている感触を掴めたら、その全体のあるべき方向と自分の取るべき方向が明確に見えてきます。

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また四苦八苦のお話ですが、その内の「愛別離苦」とは愛するものと別れなければならない耐えがたい苦しみです。
愛してしまうと執着がおきますから、自分のものにしてしまいたい、自分の思う通りにして欲しいと言う気持ちに囚われます。そこで今度は自分の思い通りにならないことが苦しみとなります。その苦しみは、やがて憎しみに似た感情となって相手に向けられます。
彼はその苦しみから逃れたい、憎しみに似た感情を貴女にぶつけたくないから、貴女を愛することから距離をおこうとしているのですね。そう言う場合には、他の女の人にも目を向けてこれを解決する方法も取ります。
人を愛すると言うことは相手を束縛したり、束縛されていることを受け入れることではありませんね。貴女にとって彼はなくてはならない存在であるように、離れていても、彼にとって貴女がなくてはならない存在にならなければなりません。彼も男なら好きだ惚れたの他に人生の目標があるでしょう。(ない男ならやめておきなさい) 私の目標を支援してくれる、なくてはならない彼ではなく、彼の目標を応援して上げる、なくてはならない私でも良い訳ですね。ちなみに、私の家内は「貴方を支えられるのは、この世に私をおいて他にはいない。」と威張っております。(笑)
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お釈迦様の説法の中に、次のような教えがあります。
「夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって向い、家政を任せ、ときどきは飾りを与えなさい。(私の妻は、これだけはしっかり覚えています。笑) 妻は夫に対し、家政をととのえ、使用人たちを適切に使い、貞操を守り、夫の収入を浪費せず、家政をうまく行うようにしなさい。これによって夫婦の間は、むつまじく争いも起こることはないのだよ。」
お互いの役割をしっかり努め、助け合って夫婦は運命共同体となることが出来ます。運命共同体となるには、お互いが信頼できる条件をクリア−していなければならないのですね。運命共同体となるのは、それが善き方へ進んでいくことが前提です。なすべきことをなさずして、権利も義務も主張できないというのが、仏教の考え方でありましょう。
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女性は、有り難いですね。結婚しては妻として亭主を立派に育て、男の子を産んでは母として立派な男に育てる。過去に日本の女性が、世界で最も素晴らしいと言われてきた所為です。ですから、性生活に限らず、貴女は焦らずに旦那さんを掌に乗せる賢い女性を目指して下さい。
日蓮聖人は、「妻は夫を財(たから)となし、夫は妻を命となす如し」と言われています。私から聞いた話で、家内が一番好きな教えだそうです(笑)。新婚旅行を楽しまれますように。
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表裏、明暗、苦楽、正邪とすべてのものは、相反するもので一体となっています。あなたの性格も、表面的なものと内面的なもの相反するもので一体となっているのですね。正しき仏教は、一体であるが故に、この表を裏に転じる、苦を楽に転じる、邪なものを正しきに転じるということが出来ます。勿論、これらにも集中力と持久力を必要としますが、これを可能にするのが信じる心、信仰の力です。「何をやっても駄目なんです、助けて下さい。もう死にたいです。」の前に、自分が生まれ変わるための、お釈迦様が残された正しき教えを学んで下さいね。
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仏の教えは、他の犠牲になる人間に変われと言っているのではありません。もし、そうならば誰も仏の教えなど欲しませんね。仏の教えによって人が変えられるのではありません。仏の教えによって、自分が内在する菩薩としての能力を顕わすのです。菩薩としての能力は、慈悲を持って人を助け、悪しき行為から離れ、あらゆる困難に打つ克ち、たゆまない努力を持続させ、心を安定させ、良き結果を得る正しい判断をさせます。その能力が、実はあらゆる皆さんの中に潜在しているのです。それを顕わす導きをするのが、本当の仏教です。そのような仏教に是非とも出会って頂きたいと思います。
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>理屈ぬきで本当の強さを教えてください

他に影響されることのない正しい信念を持つことです。その信念を貫く勇気を持つことです。そのために、お釈迦様は教えを説かれているのですね。優しい心を持ち、そして耐え忍び打ち勝つ強き心を持とうとする人を、私たちは応援しています。

仏教では無常と云って、一切のものは変化して存在するものであると説きます。何もないところから、突然に生じたり滅したりするものはないのですね。ですから、貴方の望む恋愛も、付き合いたい友人も、やりたい仕事も、ある日突然に現れるということはありません。一見、突然であるとか偶然であるとかに思えるものでも、実は自分の気が付かない原因と結果(仏教では因縁果報と云う)が必ずあるのです。
今していることが絶対に変わらないのではなく、今していることから変化していけるものなのです。今していることに固執することは出来ませんが、今していることを基盤として望む方向へ変化させることは出来ます。その大事な今を、ブツリブツリと断絶させてしまっては、何時までたっても振り出しに戻り、暗闇の中に彷徨うようなものとなります。
もう一つは、例え表面的な仕事や人間関係が変化しても、今の仕事や人間関係が次のために活かされるためには、一貫した自らの精神の上においてなさねばなりません。そういう精神を持つこと、築くことが人生にとって、とても大切なことなのですね。
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人間には欲がありますから、人と比べていつも何かが自分に不足していると思いがちです。そうすると自分は不幸な立場にあると意識してしまいますから、どんどん暗くなってしまうのですね。
お釈迦様の導きもある、諸天善神の御加護もある、自分は良く考えれば恵まれているじゃないか、こうなったのもああなったのも良く考えれば有り難いことじゃないか、よく見れば自分に優しくしてくれる人が必ずいるじゃないかと、素直な気持ちで感謝する癖を付ければ、自ずと明るくなりますよ。
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裕福な家に生まれても、事業に失敗して無一文になる人もいます。貧しい家に生まれても、仕事で成功して裕福になる人もいます。裕福に生まれても、自己中心的な生き方をして誰からも嫌われる人もいます。貧しい家に生まれても、徳のある生き方に努めて誰からも尊敬される地位をおさめる人もいます。
今現在を変えることは出来ませんが、未来は如何にでも変えられますね。釈尊が諸行無常と云われた如く、この世に変動しないものなどはなく、一切は変わりゆくものです。因縁果報、どう足掻いても変わるものならば、善き方へと変わるように努力の種を蒔き、光と水を得るように人生に臨むべきでありましょうね。
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>最近は、本気で、人間って何で生まれてきたんだろう?何で生きてるんだろう?って不思議で仕方ないのです。苦しんだり喜んだり・・・そこにどんな意味があるのだろう??(相談者)

ただ苦しんだり、喜んだりすること自体に意味を見出そうとはしないことです。苦しんだり、喜んだりすることで、何のために、何をしようとして自分は生まれてきたのかを覚ることが大切なのですね。仏教では、これを自覚すると言います。自覚して、その実現に精進する場合もあれば、実現しようと精進している過程で自覚する場合もあります。また、精進して実現した後に、自覚することもあります。その時に改めて、自分が苦しんだり喜んだりしたことの意味が明確になります。
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>家庭には世話になりっぱなしで、病気が治る見込みもなく、意欲もやる気も無く毎日ただ生きているだけで・・・(相談者)

病気や障害があって、周りの人にあたって迷惑をかけたり、自分自身を不幸のどん底に追いやる人は、過去の業によるものとされます。病気や障害があっても、周りの人に笑顔で感謝し、前向きに生きている人は菩薩の生まれ変わりとなります。そういう人は、人々の良心を呼び起こし、他の人々に善意を以って尽くす喜びと、人々に生きることの価値と勇気を与えてくれるからですね。それは、けっして迷惑なことではないのですね。有り難いことなんです。私は、いつもそういう人を知る度に、感動させられています。きっと、貴方も、その様な人をこれまで見てきているはずでありましょう。貴方が、菩薩の生まれ変わりであることを自覚するように、坊主は期待しています。
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常に自分を慈悲を以って、善き方へと導いてくださる釈尊の実在が確かに得られたらば、そういう不安はなくなります。不安が無くなれば、物事は良い循環を始めます。仏教では、これを安心(あんじん)と言います。ですから、信仰を持つことを勧めるのです。お釈迦様の教えに触れ、そしてそのお釈迦様は普段は私たちに姿を現すことはされないけれども、常に実在して教えを説かれている。その教えを本当に求めるのならば、必ずや導いて下さっていることを疑わないことです。そうすれば、何事も心を統一して臨むことが出来ます。正しき信仰無くして、根本的な精神の解決も、現実の問題の解決も出来ないと想いますよ。
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先祖から、自らの体内に受け継ぐ「因」とうのは、善でも悪でもないと考えて下さい。例えば、愛と憎しみは同じ執着の因によるものなのですね。縁によって、愛にも憎しみにも変わるものです。許せない頭に来るような怒りと正義に奮い立つ気持ちも、実は同じ「因」です。これも縁によって、悪にも善にもなりますね。それが先祖の歴史でもあります。ですから、過去の先祖から貴方が受け継がれた血である「因」があるとしても、それは善でも悪でもなく、貴方がこの人生において得る縁によって、善の結果にも悪の結果にもなるということです。先祖の善に至ったであろう縁を考え、自らも善に仕向ける「縁」を求めること、悪に至ったであろう縁を考えて、自らが悪に陥ちいる「縁」を避けることが、貴方の人生に結果を与えるのですよ。私たちが仏壇やお墓で先祖を想うときにその善き果報を尊ぶのは、そういう意味があります。
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「私の人生・私を取り巻く環境」は、本来完璧に幸福に満ちたものであるべきという、貴女の妄想があります。だからこそ、その妄想を打ち壊されることが許せないとなるわけです。実は、「私の人生も、私を取り巻く環境」も、本来現実的には不完全なものなのですよ。仏教では「一切皆苦」と云いますね。本当の幸福感というのは、優越感を保ち、劣等感に悩まされないことによって得られるものではありません。本当の幸福感というのは、不完全なる私の人生と、不完全なる私を取り巻く環境が一つ一つ解決されて完全になっていくという達成感によって得られるものです。人生の本当の価値は、そのようなところにあるのですよ。

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法華経を受持する私たち宗派は、お釈迦様の心の中にも餓鬼・畜生・地獄の心が存在するとします。お釈迦様の心の中に、そのような悪しき心が存在するからこそ、それらを憐れみ、そして慈悲を以て愚かなる人々を導く活動がなされます。
ですから、貴女の心の中にいる「人の不幸を喜んでいる鬼」も消し去ることはできません。消し去ることよりも、貴女の心の中にも、常に「人の不幸を喜ぶ鬼」がいることは忘れてはならないということです。その悪しき心が自らの心の中にあることを忘れない、懺悔することによって、「人の不幸を憐れみ悲しむ本当の自分」が現れてきます。その善き心が現れるのならば、それを実際に他の人にも働きかけて大きく育ててやりましょう。貴女の心が善き心で満たされてくる時、貴女の心の中にある鬼は、導かなければならない我が子のようなものになりますよ。
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宗教における信仰活動というのは、法悦を以て臨むものです。活動していることが、仏なり(神なり)に感謝出来るものでなければなりません。人が動かないのなら、どうしたら動いてくれるだろうかと勤めることも、人が動かないのなら、人の分まで勤めようとすることも悦びを以てしなければ出来ません。宗教組織の為に勤めることが、先にあるのではありませんよ。宗教組織のために一生懸命尽くしたから、その果報を受けるのでもありません。その宗教の教えが自らの人生に悦びを与えてくれるからこそ、一生懸命信仰に尽くせるのですね。今一度、信仰している宗教と、信仰者である自分を見つめ直してみることも大切でありましょう。
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>人間関係を築くのも苦手で・・・

ラグビ−などの団体スポ−ツがあるとしますね。そのチ−ムのメンバ−は、皆その趣向も性格も能力も違うのです。同類ではないとか、性格が合う合わないとかで、例えばチ−ム等という“仲間のまとまり”が作られるのではないのですね。同じ目標や目的があって、一緒に頑張ったり励まし合ったりすることで、性格の違いを度外視した友情が育まれるのです。友情が育まれれば、その人の性格はその性格のままで、相手に好意的に受け入れられるものです。
つまり、自分がどう思われるかなどという問題は、実は貴方が望んでいる自分と自分を取り巻く環境とは関係がないということです。自分を相手の都合に合わすなどということは、一対一の関係では可能ですが、十人十色と言われるが如く、それが多くの異なるタイプで形成された“仲間”に入るには不可能なことなのです。
中には、目的もなく、ただ楽しいから(つまり自分の快楽に都合がよいとか)集まっているグル−プもあります。そう言うグル−プは、自分の快楽が中心ですから、気にくわなければノケ者にしたりイジメたりします。そういう人間が中心となったグル−プに入って仲間にして貰うのは、考えることも馬鹿馬鹿しいことなんです。貴方が心を落ち着けて周りを見回せば、必ず良き考え方を持った人間が中心となっているグル−プがあるはずです。その中に飛び込んで、一緒に自分に出来る範囲の努力をしてみる、そして貴方の性格ではなく、そういうふうに一緒に頑張っている貴方を受け入れて貰うことが大切ですよ。
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本当の人望は、財産や学識や権力ではなく、人としての判断や行為、それに基づく善心が優れているかどうかで得られます。人望が得られれば、人をまとめることができます。そうすれば、嫉妬を抱く自分に苦しむこともありませんね。心は誰もが持ち合わせているものですから、今の自分の能力や地位に関係はありません。心を正しい判断の出来る善心なるものに変え、その心の発揮を促す力を、お釈迦様の教えより是非とも得て下さりますように。
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>いつもいつも、心を健全に保つ秘訣はなんですか?

法華経に説かれた真実、永遠に実在なるお釈迦様が慈悲を以て、常に自分を愛子として導いて下さっている事実を疑わないことが大切ですよ。貴方は、自分を見つめ直そうとしていますね。それは即ち、愚かなる自分を後悔し否定する、信仰で言うところの懺悔です。そういう時にこそ、お釈迦様の実在を疑っている自分と徹底的に闘ってみて下さい。真実が確信されれば、人生は必ず開けます。
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>人間として生まれて、死ぬまで謂わば、駆け引きの中で打算的に生きていくという生活に耐えられないのです。(相談者)

人生とは、けっしてそう言うものではないと、説かれたのが釈尊でありますね。人生に不安や憂いを持った時は、天摩に惑わされやすい時でもりますが、翻れば釈尊の教えを聞くに、とても良い状態にあります。

一切世間と言う全体の中に於いて、その一切世間を創造していく部分としての自分を見出し、分に応じた自分の役割・価値を覚らねばなりません。そのためにも法華経の信仰を得て、まずは今ある自分を否定し、そして本当のあるべき自分を自覚することが大事と考えます。(
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普通の身体に生まれても、もっと悲惨な境遇にある人もいます。そういえば、漫画の主人公ブラックジャックも縫い痕だらけでしたね。少し難しいですけれども、仏教では、世間と自分とは互いを否定して存在しているものとします。世間ではないものが自分であり、自分でないものが世間でありますね。即ち、世間から否定されてこそ、自分の存在というものがありありと現れてくるはずのものなのです。これは即ち、かくの如くある自分とは、一体何であるかと考え、実践することによって、この世間(世界)における自己というものが確立されると言うことです。釈尊がまず、「一切世間は皆、苦である」と認めさせようとされた所以でもあります。

また、世間とは、世間に非ざる存在の集まったものです。ですから、自己を確立するということは、大袈裟でなく世界を確立することになります。自己を確立することによって、世界の成立に重要な役割を担っていることになります。自己を確立することによって、世界から否定され、世界を否定して存在する自分から、世界より肯定され、世界を肯定する存在となることが出来るのですね。

世界はバラ色のばずである。なのに、自分は苦しみに満ちている。自分以外の世間が悪いのだと考えて、自己を見出そう、あるべき自分を確立させようとしないことは、自らが自らの存在を消し去ろうとしていることになります。
世間から否定されたから、世間を否定するのではなく、世間を見返す如く、自己の確立に臨む実践を行うべしと、お釈迦様は厳しくも慈悲を以て導いて下さっているのです。
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25 (蓮華のBBS)

「他人が自分のことをどう思うか」が物差しになっている社会で、自分を偽って生きていることは、即ち「束縛」を受けているのですから苦悩が多いものです。また、視線社会は妬み社会でもありますから、たとえ能力があっても出る釘は打たれるのが常で、これもまた苦悩の多きものとなります。

世に処世術なるものは沢山ありますが、「他人が自分をどう思うか」を物差しにして「徳」を図ろうとすれば、それは結局自分の損得が基準になってしまいます。他人の目ではなく「自分が自分をどう思うか」との物差しを持てば、損得を捨てて自分を社会の中で役立てる「功徳」ともなりましょう。

社会全体が、まず「自分が自分をどう思うか」の物差しを持つならば、他に束縛されることもなく、他を妬むこともなく、自分らしさを発揮しつつ自己を成長させ、自らでは補えないところは他と協調して社会全体を発展させることが可能となるでしょう。仏教の説く「和」とは、他人の目を気にして築くものではなく、そのような形で達成されると考えます。

「自灯明・法灯明」とは、釈尊入滅時の御遺戒です。「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(真理)を灯明とし、真理をよりどころとして、他のものをよりどころとするなかれ」と言う意味です。先般、「他人が自分のことをどう思いか」を物差しにするのではなく、「自分が自分をどう思うか」が大事であること述べました。勿論、この自分とは世間的な「自分よがりの自分」ではないことは言うまでもありません。「法に照らし合わせての自分」であります。

「法に照らし合わせての自分」とは、仏教を正しく学び、そして「釈尊は自分をどう思うであろうか」「日蓮聖人は自分をどう思いであろうか」「不惜身命で護法の為に尽力された御先師は自分をどう思うであろうか」と懺悔して自らの与えられた人生に日々奮闘する自分であります。

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(法輪のBBS)

> なぜ自殺は認められないのでしょうか。せまりくる苦しい死のまえに自ら死をえらぶ、それは最近老衰がすくなくなってきて、もし病気になったら、延命装置をつけないでほしいと願うひとびとと同じではないでしょうか。そうかんがえるなら自殺は支えてくれたひとびとにたいして悪いことのようには思えないのです

仏教的には、自己の悟りとしては「何故自分は存在しているのか、何をしようとしているのか」を覚ることと言えます。この答えを求めて、日々を積極的に生きて困難をも乗り越えて行くことが求道であり、自己を高めて、そして社会の中で自己実現を図っていく結果となります。これを自ら実感できるのが、人間本来の幸福でありましょうね。川蝉さんもアドバイス下さいましたが、生命の本質は精神であり、精神は絶えることなく継続します。自殺するということは、自己の精神を高めるということを自らを捨て去ると言うことになります。自己を高めると言うことを拒否した精神は、新たな生命を得ても活力の乏しいものとなり、苦しみの連鎖から逃れることは困難となりましょう。これに対して、自己を高めて、そして生きていこうとする精神は、新たな生命を得ても活力に富んだものとなるはずです。また、自らを捨て去ろうとする精神は、他にも影響を与えて、他の生命の活力を奪ってしまうことにもなります。これは、間接的な殺人と言えるかも知れませんね。自己を高めて、そして生きていこうとする精神は、他に力を与えて、他の幸福を実現させることが出来るでありましょうね。この肉体が尽きるまでは、自分を高めて、そして生きるのだという活力を持たなければ、命を落とすような事態に巻き込まれるかも知れません。それは、幸福を自ら捨て去ってしまっているとも言えますね。

肉体が尽きようとしている時に延命装置を望まない方々と、自殺によって自らの肉体を終らせようとする人には大きな違いがあります。前者は、精神的な「苦」を自らにも他にも残さない者であり、後者は精神的な「苦」を自らにも他にも残す者となります。






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